1976年(昭和51年)
本館西側に診療棟増築
充実の医療活動へ組織の大改正で強力なチームワークを発揮
昭和48年のオイルショックを契機に、豊かさを謳歌した日本の神話は音を立てて崩れ始め道民生活は多様化と不確実性という新しい時代の波にさらされようとしていた。
昭和50年前半のトピックスとして“幸福ゲーム”がある。広尾線幸福駅の切符がわずか半年で600万枚も売れたのは、揺れ動く時代の不安な心理の現れともいえよう。サラリーマンの世界も“脱サラ”から“窓ぎわ族”まで多様化現象を起こし始めた。道民所得が初めて1人当たり100万円の大台に乗ったのが昭和51年のこと、しかし人びとの心は必ずしも豊かではなかった。不確実性の時代を迎えて道民の生き甲斐も多様化が著しかった。
主婦を中心に、華道、陶芸、ヨガ、テニス等の文化教室がさまざまな所で催され、ジョギングも女性から老人まで幅広いブームを呼んだ。社会の多様化、複雑化に伴って医療界では、高度化、専門化、細分化が進み、患者の身体的、精神的、社会的、経済的ニーズに応えた総合医療の必要性が叫ばれるようになっていた。
この中で天使病院は、あらゆる人びとに対してその人間性を大切にした関わりを通して単に健康回復にとどまらず、社会人として自立して生活出来るよう援助するという全人的医療を目指した。
その内容は、病院組織を診療部と管理部に分け、診療部は、各診療科を診療部長が統括し、管理部は診療を支える診療部以外の医療技術部門、看護部門、サービス部門が属し、それらの部門を管理部長が総括し、全職員がそれぞれの分野で専門性を発揮しながらも、院内においてのお互いの情報交換、連絡、協力体制がスムーズに行われるようなチームワークを保ち、病院の目標に向かって一丸となることを目的としたものである。
その結果、それぞれの部門が自分達の受け持つ役割を自覚し、業務を果たすための責任感が強まると同時に他部門への理解を深め、協力とチームワークが円滑に行われるようになった。
昭和50年、医療の高度化に伴い、検査部、放射線部の充実が必要となり、また地域の救急医療体制の強化が叫ばれるようになり、それに応え、救急部門をいち早く充実した。また、慢性疾患患者、交通事故患者の増加に伴い、リハビリテーションの施設も必要となってきた。こうしたことを受け、昭和50年には、病院木造部分の増改築計画も具体化され、翌昭和51年2月には、着工の運びとなることが決定した。
建築に先がけて、その資金募集のために院内バザーが病院中庭で催された。これには、職員をはじめとして、病院外の人びとも積極的に参加して大きな成果をみたが、これも近代的施設のもとで、医療の充実を願う人々の心のあらわれであった。
この年、北海道衛生部長の依頼を受け、広島原爆病院の外科部長石田医師により、昭和50年度被爆者特別健康診療が天使病院で実施され、対象患者約40名が受診した。11月、北海道医師会創立記念式典において、天使病院鈴木勝太郎医師が医師保健に関して特に功績顕著であったとして北海道医師会会長より表彰された。
また、社会環境の急激な変化に伴い、精神疾患患者の多いことも、この頃の特徴であった。
昭和46年に開始され、外来診療を中心とした天使病院神経科もその受診患者は年々増加し、昭和51年には月間約1,200名の患者が来院した。この年、さまざまな患者に幅広く応えるためにそれまでの精神科は精神・神経科に名称が変更された。
昭和51年は中央診療棟の増築完成に伴って医療施設をより積極的に充実させるための発展期ともいえる。
天使病院は社会福祉法人立の病院として毎年浜益村無料巡回診療、養護施設の健診、精神遅滞施設及び老人ホームの出張診療を実施してきたが、この年さらに無料の耳鼻科検診、精神衛生相談、成人病検診および幼稚園、保育園の健康診断を行い、福祉活動の範囲を広めた。
また昭和52年、雪の聖母園精薄施設および藤の園老人ホームへ精神・神経科が出張診療(写真)を開始した。
また、日本カトリック医療施設協会総会が札幌で開催。札幌で開催することは始めての事で唯一のカトリック病院である天使病院が総会準備を担当し、全国より100名近い会員を迎えて盛大に行われた。2日間にわたる研究学会では、現代社会の中でカトリック医療施設が抱えている諸問題が取り上げられ成功のうちに終了した。