1947年(昭和22年)
小児科の診療開始
最新看護法への新たな道
昭和21年以降の社会は戦後の混乱の中から国家再建の模索が始まり、日本国憲法・女性参政権・地力自治法施行などが行われた。しかし、多くの人びとの生活は混乱と貧困の中にあった。食料難や住宅難は解決されず、しかも個人の健康保持はおろか、病気の治療もままならなかった。伝染病は衰えを見せず、終戦直後の発疹チフスの大流行は、患者の1割が死亡という悲惨なものだった。
戦災による家庭の崩壊、やみ市、繊細孤児、たけのこ生活など戦後の混乱は長く尾を引いた。この事態の打開に政府は生活保護法を交付し、生活困窮者に対する社会保障制度を実施した。また、医療扶助制度の緩和により、比較的容易に医療を受けられるようになり、人びとは少しずつ明るさを取り戻した。
混乱から再建へ。この時期、天使病院も人びとともに新しい時代への道を歩き始めた。
天使病院の歴史を顧みると、戦後のこの時代は実に大変化の時時代といえるだろう。明治以来、一貫して培われた天使病院の医療、看護の両面はこの時を境に、これまで体験したこともない全く新しい道へと進むことになった。
ペニシリンをはじめとする医薬品、最新の医療器具、戦時中の極端な物資不足の後遺症が残るこの時期に、アメリカから導入されたこれ等の品は息をのむ新鮮さをもたらした。
また、病院の中に斬新な風を吹きこんだのは看護法だった。アメリカ式看護法が道内に導入された最初の病院は天使病院で、これ以後北海道における最新看護法伝達の拠点となった。昭和22年、GHQの指令により、ミス・カルソンとミス・トウールが、看護婦の再教育を目的に全国を回り、北海道では天使病院がその会場となった。
当時は交通も食料も不自由な状態だったが、全道各地から看護婦が集まり、熱心に新しい看護法の講習をうけた。(写真は和室の教室での講習風景)
また天使病院では、全道の看護婦を対象として講習会を企画し当病院の看護婦が指導にあたった。このことは日常業務に加えてのことだったので、各人の負担は大きかったが、みな使命に燃え熱心に指導した。そのころ、アメリカ式看護を見学しようと、多くの人が連日訪れ、古い木造の廊下は床がぬける騒ぎが起きたほどだった。
その年(昭和22年)に、小児科の診療を開始。小児病棟(写真)を成人病棟から独立させ、親は付き添わず、看護はすべて看護婦に任せられた。このような転換は単に看護のみならず、施設・設備など、すべての点に及び、また看護婦・助産婦対する社会の認識も一新させる効果があった。
また社会の要請にこたえて、昭和28年に、天使病院附属天使助産婦学校及び、同28年には、天使病院付属天使准看護婦養成所を開所し、より一層看護婦の養成に尽力することになった。