1944年(昭和19年)
社団法人大和奉仕会に名称変更
終戦、そして新しい風が吹き始める
さて戦争末期の昭和19年3月には、「社団法人マリア奉仕会」を「社団法人大和奉仕会」という名称に変更したこともあった。この名称は戦後再び変わることになる。
物資不足はますます深刻になり、各職場や家庭にも金や鉄の供出命令が出された。病院も鉄製のベッドをすべて供出することになったが、幸運にも供出寸前に終戦になり、供出を免れた。このベッドが残ったことは、戦後のベビーブームに大いに役立つことになった。
昭和20年8月15日に迎えた終戦は日本を一変させた。天使病院もこの日を境に新たな段階へと踏み出したのだった。
終戦当時、混乱した社会情勢の中で最も心配されたのは伝染病の多発だった。荒廃した国土に再び発疹チフス、痘そう・コレラ等の伝染病が蔓延した。発疹チフス発生などは日常茶飯事のように市中で語られた。病院にも次々と患者が運ばれて来て収容しきれぬ状態になり、シスターや職員は休むひまなく治療や看護に当たらねばならなかった。
そしてこの時、院内に悲しく痛ましいことが起きた。伝染病棟勤務のシスター・ウゼブが運悪く発疹チフスに感染したのだった。発病後、1週間も高熱に苦しむ彼女のため、皆で必死の看病と祈りを続けたが、そのかいもなく彼女は天に召された。彼女は生前、伝染病棟で働き、患者のため全を尽していたので、患者達より愛され信頼されていた。彼女の発病前も一人の発疹チフスの患者が外に飛び出そうとするのを、とっさに引きとめるなど、彼女については、たくさんの話か残されている。病院中の人びとは、この天使病院の創立者の一人であったシスター・ウゼブが、いつも自分を捨て病者のため献身的に看護にあたっていたその尊い行為に、あらためて感激の涙を流し、また感謝の祈りを捧げたのだった。
このような悲しいこともあったが、やがて収容所から外国人のシスターたちも帰って来られ、出征中の医師達も、次つぎに復員し、病院もようやく活気をとり戻して来た。
このころ、外地からの引き揚げ者が続々と帰国したが、急激こ増える帰国者や本州の被災者の定住で、住宅'事情は最悪の状態となった。狭い家屋に数家族が同居する窮状を見かねて、病院では少しでも地域の人びとのため、一時的に病室を開放して何組かの家族を入居させた。きのうまでの病室が今日は生活の場になるという異常な光景も戦後なればこそであった。
その後、病院の近く、(後の天使マンション)に小さな家が何軒も建ったが、病院内の数家族もそこに移り住む事になり、やがてここは天使村と名付けられた。
天使病院の戦時中の動乱期は、こうして終わりを告げたが、振り返ってみると、あの時代は物はなくとも、精神的には充実していた時代と呼ぶことが出来ると思う。医療にたずさわる者が満足な治療も活動も出来なかったのだから、たしかに大変な時期ではあった。
しかし、最悪の条件と最低の状態にありながら、必死に祈り、懸命に働き、各人が持てる力を最大限に発揮したという充実感は、何ものにも代えがたいものがあった。終戦の日から4ヶ月後、この年の12月に婦人参政権が確立し、新しい時代の幕開けとなったが、天使病院も従来のドイツ式看護からアメリカ式看護に変わることになった。創立以来、研さんを積み、身につけたなじみ深い看護法が、終戦を境に一変する事態は、まさに時代の変遷をこの目で確認することであり、やがて天使病院には、新しい風が吹き始める。