03動乱期
祈りと愛の試練に日々 心のつながりで苦難をのりきる
人びとが戦禍に巻きこまれたこの時期は、天使病院にとっても苦難にみちた最大の試練の時であった。戦時中、人びとは弱者の立場におかれたが、病院もまた人びとと共に苦難の道を歩まなければならなかった。
その中で病院と共に歩む少数の者たちは、祈りの下で愛を忘れず、創意工夫と努力で、その試練を乗り越え、次代への道を開いていった。
戦争の波が病院にうち寄せる。シスターの拉致事件も・・・
満州事変、日中戦争と軍靴の音が響くなかで、天使病院は、地域の人びとのために、結核の予防や治療を行い、また貧しい人びとや虚弱な人びとに対して指導と治療を行うなど、地域医療に尽力した。(写真は外来診療の風景)
この地域医療活動は、これまでも福祉活動と表裏一体の関係で行われてきたが、昭和16年には、これまで育児部と託児所を更に発展させた保育園を開設した。
当時は、「産めよ殖やせよ」の国策に沿って、貧富を問わずどの家庭でも子どもは多かったが、貧困や共働きなどで十分な育児も出来ぬ家庭が多かったため、これまでも、それ等の子ども達の施設・育児部と託児所を設けていたが、更に施設の拡張と充実に迫られた。そこで保育園開設の申請を行い、16年4月に許可が下り、天使保育園・後の天使幼稚園が誕生した。この保育園開設により、地域の子どもたちに適切な指導や遊びを与えることが出来るようになった。
しかし世相はますます厳しさを増し、ついに12月8日を迎え、真珠湾攻撃に続く日米開戦のニュースは日本中を巨大な戦争の渦に巻きこんだ。太平洋戦争が始まり、この日から天使病院の新た苦難の日々が始まった。
まず最初の悩みは人員の不足であった。学徒出陣をはじめ働き盛りの男性は全て戦場へと狩り出されたので、病院も例にもれず日を追って男性医師と職員の出征が続き、人員不足は日増しに深刻化した。この深刻化は人員だけにとどまらず、医薬品をはじめあらゆる物資が不足し、ついで食料難が押しよせた。外来・入院の患者のたまの必需品が目に見えて不足し、治療もままらなぬ状態が続いたため、シスター始め職員一体となって必死に医薬品集めにかけ回った。ただでさえ人員不足に加えて、一人二役も三役もこなしている現状の中で、この医薬品集めは、一同にとって大きな試練でもあった。祈りと努力で入手出来た医薬品は貴重で、まるで宝物を扱うように用いられ、また再生できるものは限度いっぱいに使われた。
このような状態の中で、ある日突然、ショッキングな悲劇が起きた。
数人の警察官がどやどやと乱入して来て、4人のシスターを拉致していったのである。天使病院は国際的な病院なので、シスター達は国籍を越えて互いに助け合い、祈り、使命に忠実に働いていたのだが、敵国の国籍という理由のみで4人のシスターは拉致されたのだった。
突然の出来事に抵抗もできず、残された者たちは、ただ一心に彼女たちの無事を祈るだけだった。当時を知るシスター・高島はるは、「4人のシスター達は初め仙台に連行され、続いて東京麹町の収用所に収用されたのです」と語っている。
戦時中とはいえ理不尽な拉致事件は病院中を悲しみに沈ませたが、現実の日常生活は悲しみに暮れてばかりはいられなかった。
手不足の病院では、シスター川原・ドクター鵜沢の二人の女医が病院中を駆け回り、休むひまなく献身的な診察と治療を続けた。
当時は、女性が男性同様の力仕事をしなければならなかったが、病院でもシスターたちは本来の仕事と共に戦時下の必要事項である防火のための床下改修などの男の人の仕事などもしたものだった。
またそれに加えて、入院患者のため、深刻な食料難を解決なければならなかった。
当時、入院患者のため、配給の食料だけでは到底足りず、丘珠に土地を借り、シスターをはじめ、病院職員全員が交代で野菜作りをすることになった。疲れた体にむちうち、1時間以上もかかる石ころだらけの道を、毎日リヤカーをひいて通った。作物は、カボチャ、バレイショ、ホウレンソウ、トウモロコシなどだが、 まめだらけのなれぬ手つきで鋤や鍬を握ったものだった。
(写真は広大な丘珠農場をわずかな人数で農作業をする様子)しかし、こうして苦労して作った野菜類も、もともと少ない配給量の不足分を補うだけだから、患者の中には満足しない者もいた。
終戦、そして新しい風が吹き始める
さて戦争末期の昭和19年3月には、「社団法人マリア奉仕会」を「社団法人大和奉仕会」という名称に変更したこともあった。この名称は戦後再び変わることになる。
物資不足はますます深刻になり、各職場や家庭にも金や鉄の供出命令が出された。病院も鉄製のベッドをすべて供出することになったが、幸運にも供出寸前に終戦になり、供出を免れた。このベッドが残ったことは、戦後のベビーブームに大いに役立つことになった。
昭和20年8月15日に迎えた終戦は日本を一変させた。天使病院もこの日を境に新たな段階へと踏み出したのだった。
終戦当時、混乱した社会情勢の中で最も心配されたのは伝染病の多発だった。荒廃した国土に再び発疹チフス、痘そう・コレラ等の伝染病が蔓延した。発疹チフス発生などは日常茶飯事のように市中で語られた。病院にも次々と患者が運ばれて来て収容しきれぬ状態になり、シスターや職員は休むひまなく治療や看護に当たらねばならなかった。
そしてこの時、院内に悲しく痛ましいことが起きた。伝染病棟勤務のシスター・ウゼブが運悪く発疹チフスに感染したのだった。発病後、1週間も高熱に苦しむ彼女のため、皆で必死の看病と祈りを続けたが、そのかいもなく彼女は天に召された。彼女は生前、伝染病棟で働き、患者のため全を尽していたので、患者達より愛され信頼されていた。彼女の発病前も一人の発疹チフスの患者が外に飛び出そうとするのを、とっさに引きとめるなど、彼女については、たくさんの話か残されている。病院中の人びとは、この天使病院の創立者の一人であったシスター・ウゼブが、いつも自分を捨て病者のため献身的に看護にあたっていたその尊い行為に、あらためて感激の涙を流し、また感謝の祈りを捧げたのだった。
このような悲しいこともあったが、やがて収容所から外国人のシスターたちも帰って来られ、出征中の医師達も、次つぎに復員し、病院もようやく活気をとり戻して来た。
このころ、外地からの引き揚げ者が続々と帰国したが、急激こ増える帰国者や本州の被災者の定住で、住宅'事情は最悪の状態となった。狭い家屋に数家族が同居する窮状を見かねて、病院では少しでも地域の人びとのため、一時的に病室を開放して何組かの家族を入居させた。きのうまでの病室が今日は生活の場になるという異常な光景も戦後なればこそであった。
その後、病院の近く、(後の天使マンション)に小さな家が何軒も建ったが、病院内の数家族もそこに移り住む事になり、やがてここは天使村と名付けられた。
天使病院の戦時中の動乱期は、こうして終わりを告げたが、振り返ってみると、あの時代は物はなくとも、精神的には充実していた時代と呼ぶことが出来ると思う。医療にたずさわる者が満足な治療も活動も出来なかったのだから、たしかに大変な時期ではあった。
しかし、最悪の条件と最低の状態にありながら、必死に祈り、懸命に働き、各人が持てる力を最大限に発揮したという充実感は、何ものにも代えがたいものがあった。終戦の日から4ヶ月後、この年の12月に婦人参政権が確立し、新しい時代の幕開けとなったが、天使病院も従来のドイツ式看護からアメリカ式看護に変わることになった。創立以来、研さんを積み、身につけたなじみ深い看護法が、終戦を境に一変する事態は、まさに時代の変遷をこの目で確認することであり、やがて天使病院には、新しい風が吹き始める。