02第一充実期
近づく軍靴のひびきを聞きながら 生命の尊さを思い医療に全力を注ぐ
病院としての体裁をすっかり整えた天使病院ではあるが、継続的な医療事業を推し進める中で、必要に迫られての各種事業の拡充に力を注いだのもこの頃のことである。
単に医療を行うばかりでなく、健全な社会復帰を願って開設された授産所を始め、助産室の新築、妊産婦の診療・看護教育・託児部の開設等々がそれである。
しかし、昭和5年の昭和恐慌による社会不安をはじめ、昭和12年の日中戦争を境に、我が国は重苦しい雰囲気に包まれ、国策の方針にそって医療活動を行わざるをえなくなった。
寄る辺ない貧しい人びとへ授産所の開設 予防から社会復帰まで一貫した医療活動
天使病院は、大正14年には多くの患者さんが訪れこうした人々に対して診療を行った。事業は順調に進み、天使病院はもはや、東地区の基幹病院としては勿論のこと、札幌市にとっても重要な医療機関として欠かすことの出来ない病院に成長した。
大正15年12月25日大正天皇が崩御され、今上天皇が直ちに即位されて、年号も「昭和」と改められた。そして文字通り新しい時代への幕開けとなった。しかし国内には暗い不安の影が少しずつ忍び寄る。
昭和4年に、ニューヨークの株式市場が大暴落を見せ、世界恐慌の嵐が日本にも押し寄せて来た。昭和5年、世に言われるところの昭和恐慌の嵐はここ北海道にも容赦なく吹き荒れ、経済不況により北海道の失業者は増え続けた。街には職を求める人があふれ、こうしたことも反映して、この年の労働争議は104件を数えた。
また道産米は
300万石を記録したものの、全国的に豊作で、米価はたちまち暴落、これに追いうちをかけるように6年から10年にかけて北海道は冷害・凶作が続き、風水害にも見舞われ農村は極度に疲弊した。沿岸漁業を主体とする漁村でも、昭和2年を境に漁獲高減少、魚価下落と農村におとらず生活も悲惨を極めていた。各所に不幸な事態が見られ、漁農村の救済策が重要な課題となるなど、スタートしたばかりの拓殖計画も足ぶみ状態となった。
このような世相の中にあって、天使病院に課せられた使命も大きなものであった。
ただ単に病む人びとのために医療を行うというばかりでなく、いかなるときでも人間尊重を貫き予防から社会復帰に至るまでの一貫した医療活動は天使病院ならではのものであり、ますますもってその地位を揺ぎのないものとした。
不安な社会におびえる貧しい人びとのために、社会事業もより積極的に行われ、そのひとつが、昭和2年の授産事業(右と下の写真はその様子)の開始である。天使病院を訪れる患者と家族の生活状況を見るにつけ、寄る辺ない貧困者、体質虚弱者、あるいは素養の無いために失業している人びとを集め、各人の能力と才能に応じて、印刷製本、裁縫刺繍などの技術を習得させるなど、失業対策としての事業であった。
こうした事業は、ただ医療のみに終始していた当時の医療機関を超えて、医療と福祉の統合をめざすという画期的な時代を先取りしたものであった。
昭和3年に、天使病院にとって一つの出来事があった。それは広島村に天使病院の分院が設立されたことである。
この設立の由来は、前年に村の有力者数名が来て、天使病院の医師を1名村の為にほしいと依頼して来たのに始まる。これに応ずることは不可能なことであったので、結局は週2~3回汽車で医師1名及び修道女2名を出張させることになった。
そのうち次第に小病院建築の計画が生じ、村では捕肋金として、3,000円を集めることを約束した。しかし集まった金額は予定額の半分を上回る程度にすぎず、その後つづいて残額調達ということで工事は春になって着工した。この信者ではない発起人の人びととは別の人びとによって工事反対の声があがったのは工事の準備が始まってから間もない頃である。これ等の反対派の人びとは、演説によりまたは新聞紙上で反対を示し、また許可を却下するよう公の機関を説いて回った。
しかし工事は7月に完了し、8月30日開院の運びとなった。推進者達は大いに喜び祝い、反対者達は口をつぐみ、彼等も次第に病院を利用するようになったのである。
北1条教会内に無料診療所を開設
昭和6年9月、満州事変をきっかけとしてファシズムが台頭し、内外に緊迫した空気が漂って来た。
カトリック北1条教会の敷地内に無料診療所及び無料収容所を開設したのは此の頃のことである。病院から医師、シスター、看護師が出向き、多くの人びとが列をなして診療をうけた。また豊平川の下流東橋の下に多数の貧しい人びとの集落があり、こうした人びとへ献身的な医療活動を始めたのもその延長線上の仕事である。
この頃、社会には結核が蔓延し、多くの死者が続出した。
大正8年結核予防法が施行されて、患・死者の届出がなされて以来、比較的正確に把握できた時期以降でも、結核死亡数は3千を超え、人口1万人につき死亡率30%を越えた。以来、満州事変以降増加の一途を辿り、昭和14年の56.24%を最高として、我国有数の結核都市の汚名を残した。
昭和5年、市立療養所がはじめて専門の療養施設として誕生し、昭和17年白川に国立療養所が出来るまでは、推定5,000人に達しようとする市内の患者達は、本格的な療養を受けようと必死であった。このため天使病院も結核患者で溢れた。
当時の患者の多くは、丘珠、篠路、花畔といった石狩方面からの人びとであったが、こうしたことも対処するため、昭和2年には結核病棟がつくられた。長い病院生活の間にキリスト教の洗礼を受けた人も多かった。
さて、こうした天使病院の医療活動と平行してこれを側面から支えてくれた行政側の援助も忘れてはならない。昭和に入ると、明治10年に流行したコレラはもはや見られなくなったとはいえ、公衆衛生上の対処は需要な課題であった。
その一つは、排水下水の工事が始められたことである。それまで汚水処理は住民まかせだった。計画都市として出来た札幌もまち並みづくり、道路補修、豊平川治水工事が急を要したので衛生面はどうしても後まわしになった。保健に関する布石は早くからあったが、公衆衛生は立ちおくれていた。30を越す官営工場からの汚水は、創成川、伏古川に排出されたが、下水は素掘りの側溝だったため、各戸の汚水は川まで行かず、地下に浸透し井戸に入り、地下水の豊かさと、清冽さを誇った札幌も次第に汚染されてゆく。本格的下水道は、大正15年より始まった。
上水道は昭和12年に藻岩浄水場が完成。井戸があるから水道など要らないという市民に役所か頭を下げて、つけてもらうという時代であった。
昭和10年、苗穂に塵芥焼却場が出来、その後、続々と近代的処理場がつくられた。
昭和11年2月26日には、東京にいわゆる2・26事件が起こり、日本の指導的地位にある政治家たちが犠牲となった。
昭和12年7月に勃発した日中戦争を境に、わが国は戦時体制に入り、翌13年には国家総動員法が公布されて、軍需物資増産のため、国民生活に関係の深い品目の民間消費は制限を受け、経済の国家統制が強まり、キリスト教に対する従来の寛容さは次第に厳しいものに変っていった。このような中で、昭和12年6月、天使病院の経営主体は、社団法人マリア奉仕会札幌支部となった。
生活に困難な妊産婦へ助産室の新築
事業を漸進的に継続しているうちに、更に一つの事業を起こす必要に迫られた。それは助産室の新築である。
昭和8年より助産婦が家庭訪問を行うことになり、昭和12年頃、貧困家庭を訪問している際、ちょうど妊婦のいる家があった。その貧困状態は言語に尽せぬものであり、分娩に要する費用はもちろんのこと、その日の生活にさえ事欠くような状態であり、これを見るに忍びず、また出生後の嬰児の前途を思い、憐びんの情切なるものがあり、この産婦を収容した。これが助産を行った始まりとなる。
妊産婦の入院希望が続出
昭和13年には、正式に産婦人科の診療を開始する事となった。
こうして開始し始めると貧しい妊産婦の入院希望か続出した。このため、病院では、臨時に普通病棟をこれにあて、貧困妊産婦を専門に診療したが、この産室も不足となり、昭和14年助産室を新築しこれにあてた。こうして妊産婦の数は開設当初の3倍になり、大変なにぎわいを見せた。(写真は分娩室の一部)
これより一年前の昭和13年3月、天使病院が道庁より、看護婦講習所として指定をうけ、さらに昭和15年4月産婆講習を開始した。
国家のため、人びとのため、神の御栄えのために
昭和15年、皇紀2600年記念事業として、乳幼児の保育並びに低学年児童の保護をする目的で託児部(名称・天使の友愛児園)を開設した。
これはもともと、院内の職員及び授産部に就業中の人の子供達を対象として開設されていたものであるが、日中戦争勃発に伴い急激に各種産業に従事する婦女子が急増し、乳幼児の保育がなおざりにされている状況を遺憾に思い、在米の託児室を拡張したわけである。
また昭和
17年にはこうした託児所新築に伴い建物を2階建とし、階上を母子の為の居室とし、家のない母子を対象とした、母子ホーム(居室6)を開設した。このように、天使病院の事業は、時代の要請に積極的に応じながら拡張を見たのであるが、時代が急激に変化してゆくにつれて、あらゆる事業が国家目的にそって動員されるようになって行った。そのために、社会的責任もいよいよ重さを増し、併せて経済状態も困難となり、常に経営者の頭を悩ませた。
しかし、このような事業は自己満足のためではなく、真に宗教的な信念と
使命感に立脚したものであり、そこで働く人びとは、国のため、人びとのため、神の御栄えのために、その日その日を奉仕したのであった。
昭和16年12月8日、日本はアメリカなどに宣戦布告をする。このことはまた、天使病院にとって、今までに幾多の困難を経験しているとはいえ、かつてない不安に包まれた医療を続けなければならない苦しみの始まりでもあった。